蔵人を統率する酒造りの最高責任者「杜氏」。「越後杜氏」は、岩手県の南部杜氏、兵庫県の丹波杜氏とともに日本三大杜氏に数えられる。時代が変わっても受け継がれるべき越後杜氏“魂”とは――。
最初に、越後杜氏について詳細にまとめられた書籍として紹介したいのが、1999(平成11)年に発行された中村豊次郎著『越後杜氏と酒蔵生活』(新潟日報事業者)だ。
1925(大正14)年に上越市(旧清里地区)で生まれた中村さんは、高校教諭として県内各地の高校で指導にあたりながら新潟県の酒造史を研究。定年退職後は新潟清酒学校講師も務めた。
同書によれば、雪国新潟県では昔から冬季にさまざまな職種の出稼ぎ業があり、杜氏に統率された酒男(杜氏を含めた蔵人)集団が全国各地の酒蔵へ酒造りに出かける「酒屋稼ぎ」もその一つだったという。
越後杜氏はその出身地の名で呼ばれており、特に多くの杜氏を輩出した四大出身地がある。現在の上越市吉川区や柿崎区の「頸城(くびき)杜氏」、柏崎市や刈羽(かりわ)村の「刈羽杜氏」、長岡市の越路地域を中心とした「三島越路杜氏」と、長岡市寺泊(てらどまり)の「三島野積杜氏」。三島越路杜氏と三島野積杜氏は「越路杜氏」「野積杜氏」の略称で呼ばれることが多い。
『越後杜氏と酒蔵生活』の「越後杜氏と酒男集団」より
明治以降の全盛期には越後の酒男総数は2万人ともいわれた。丹波や但馬などの西国杜氏のもとで技術を習得し、次第に越後流の独自の酒造技術を考案。1930(昭和5)年に新潟県醸造試験場が創立されてからは、専門研究員のサポートを受けてさらに技術と味が磨かれた。技能とともに越後人の勤勉さや粘り強さが蔵元から買われ、越後杜氏は勢いを伸ばし、勤務地は関東や中部地方を中心に26都道府県にも及んだ。
その後、機械化や通年雇用制度への移行とともに出稼ぎは減少し、昭和30(1955)年ころは1000人強だったが、昭和の終わり(1985年ころ)には約半数、平成14(2002)年ころには200人を切った。
中村さんの著書では、江戸時代に越後杜氏の関東進出を支えた仲介人の存在から、手造りが中心だった大正・昭和初期の越後杜氏集団の暮らしと酒造りの工程、当時盛んに歌われてきた作業唄「酒造り唄」、そして時代の変化による酒男の減少とその対策として全国に先駆けて誕生した新潟清酒学校の取り組みまでを詳細に紹介。越後杜氏を知るバイブルともいえる一冊だ。
弊社から発行してきた『新潟発R』の2021春・15号では、「愛しの越後杜氏たち」と題した特集を掲載した。
レジェンド杜氏と、新潟清酒学校卒業生杜氏の紹介を通して、越後杜氏のストーリーを伝える企画だった。数多いレジェンド杜氏の中から、出身地や勤務環境の違いにより6名を紹介した。2021年の取材から、6人の越後杜氏を紹介する。
長岡市越路出身の郷良夫さんは取材当時(以下同)の酒造歴は61年。16歳で千葉県の池田酒店(現和蔵酒造、千葉県)への出稼ぎからスタートし、県内の高橋酒造で杜氏となり、その後河忠酒造(長岡市)へ。にいがたの名工、黄綬褒章を受章。2010年に郷さんから杜氏を引き継いだ新潟清酒学校20期生の野水万寿生さんから見た郷さんは「麹の鬼です」。「厳しさの根底に『いい酒を造りたい』という思いがいつもあった」と振り返る。
郷良夫さん(左)と河忠酒造杜氏の野水万寿生さん(河忠酒造にて)
海沿いの長岡市寺泊周辺が出身地である野積杜氏の青栁長市さんは酒造歴69年。
寺泊(長岡市)周辺(2009年春撮影)
青栁長市さん(宝山酒造にて)
15歳で北海道旭川の石橋酒造へ酒男の一員として出稼ぎに出た。岐阜県や栃木県の酒蔵を経て、北海道の利尻島の酒蔵へ。その後県内糸魚川市の田原酒造で、杜氏の下で全体を取り仕切るナンバー2である「頭(かしら)」に。次に勤務した長野県の長野銘醸で杜氏となり、県内弥彦村の弥彦酒造、岩室村(現新潟市)の宝山酒造の酒造りを担った。にいがたの名工、黄綬褒章を受章。宝山酒造では蔵元の要望に応え、粘り強く飯米のコシヒカリによる酒造りに挑戦、見事成功させた。
米山弘さんと奥さまのチイさん
旧越路町(長岡市東谷)出身の越路杜氏の米山(こめやま)弘さんは酒造歴60年。18歳で佐渡市の中山酒造店へ出稼ぎに出た。京都府の津村酒造、千葉県の飯田酒造を経て、富山県の若鶴酒造で杜氏となった。県外勤務ばかりだった現役時代、半年間家を守ってくれた奥さまに感謝する。「おっ家内(おっかない=気が強い)」と冗談交じりに奥さまを呼ぶのも、深い愛情あってのこと。微笑ましい。
栁澤久さん
上越市吉川区出身で県立吉川高校卒業の栁澤久さんの酒造歴は58年。1953(昭和28)年に、まだ醸造科ができる前に同校に入学し、卒業後は宝山酒造へ。分析などを担当しながら酒造りの現場を体験。酒造り唄もここで仕込まれたという。その後愛知県の市川酒造を経て、長野県の七笑(ななわらい)酒造(長野県)へ。黄綬褒章を受章。何よりも人の和に心を砕き「酒には造る人の気性が出ます」と語った。
平野保夫さん
栁澤さん同様、上越市吉川区出身の平野保夫さんは、1960(昭和35)年に設置(2004年に閉科)された吉川高校醸造科出身。酒造歴57年。高校卒業後、一年間麹室などを造る設備会社勤務を経て、柏崎市の原酒造へ。2020年に杜氏を引退するまで原酒造一筋だった。現役時代には自社の酒造りを極めるとともに、日本酒造杜氏組合連合会の会長も務め精力的に活動。黄綬褒章を受章。酒造り唄や自作の唄のCDも制作する芸達者で、「にいがた酒の陣」でも美声を披露した。
平田正行さん(右)
上越市の頸城村(現頸城区)出身の平田正行さんの酒造歴は52年。群馬県の酒井酒造店、国税庁醸造試験場(東京都)を経て、妙高酒造(上越市)に勤務し、38歳で県内最年少杜氏となった。にいがたの名工・全技連マイスターともに認定されたのは越後杜氏としては初めて。技術の探求・追求とともに大切なのは蔵人の和だと言う。「よく蔵ぐせと言うでしょ。あれは蔵人のチームワークですよ」
この特集では、長年新潟県酒造従業員組合事務局として杜氏や蔵人をサポートしてきた、“越後杜氏の母”的存在の本間久美子さんにもエピソードを聞いた。
「春、給金を握りしめて家に帰るまで、とにかくがんばるしかなかった。こんな思い出を共有してきた同士ですから、杜氏さんたちは仲がいいんですよ」と、現在でも黄綬褒章を受章した杜氏さんたちの集まり「黄醸会」の世話役をしている。
酒造業に関わる従業員の組合である新潟県酒造従業員組合連合会(現在は新潟県酒造杜氏研究会・新潟清酒学校同窓会と統合し「新潟酒造技術研究会」)の35周年記念誌『明日を切り拓く越後杜氏たち』(2001・平成13年発行)には、冬季の酒造りだけでなく、地元に帰ってからの夏季の講習会など、越後杜氏がいかにして技を磨き、越後流の酒造りを磨いていったかという苦労と、熱い思いが紹介されている。
かつては出稼ぎから戻った春には、県内各地の杜氏組合ごとに品評会も開催された。
五泉市村松の金鵄盃酒造の出品酒造りを取材していた2010(平成22)年の4月初旬。
金鵄盃酒造前杜氏の阿部昇さん(2010年撮影)
当時、金鵄盃酒造杜氏だった阿部昇さんが前任の流れから寺泊酒造従業員(野積杜氏)組合に所属していたことから、長岡市寺泊支所で開催された62回目の品評会を取材させていただいた。
県内や福島県、関東各地で活躍する杜氏たちが一同に会し、自身が醸した自慢の酒約60点が並び、県醸造試験場の先生たちが審査をする。
拙著『ケンカ酒 新潟の酒造り 小さな蔵の挑戦』(新潟日報事業社)「越後杜氏の技を競う」より
当時組合会長で宮尾酒造杜氏だった藤井正嗣さんは「順位を競うとともに、各地に出稼ぎに行っていた仲間たちが無事酒造りを終えたことを喜び合う会でもある。皆が元気で、造った酒を持ち寄れることが何より」と言っていた。名杜氏の厳しいまなざしとともに、温かな笑顔があふれる品評会の場に立ち会えたことは、今でも忘れられない貴重な体験だった。
『明日を切り拓く越後杜氏たち』では昭和43(1968)年に初めて開催された清酒品評会についても紹介。第1位の県知事賞から4位の新潟日報賞までを決定する品評会だった。見事第1回の県知事賞を受賞した岐阜県の酒蔵に勤務する堀井政雄さん一家のインタビュー記事も掲載されている。このときの第2位は前出の郷良夫さん(河忠酒造)だった。
清酒品評会は現在も「越後流酒造技術選手権大会」の名称で続いており、今年の「令和5酒造年度 越後流酒造技術選手権大会」で56回を数える。
5月に発表される全国新酒鑑評会は金賞が決まるが、この大会は越後杜氏のナンバー1が決まり、1位から10位までが表彰されるとあり、時代が変わっても新潟清酒を造る杜氏にとっても酒蔵にとってもは熱が入る品評会だ。近年は新潟清酒学校卒業生杜氏も名を連ねる。前回(令和4酒造年度)のナンバー1「越路乃紅梅」(頚城酒造)の杜氏は新潟清酒学校30期生の吉崎司さんだった。
令和4酒造年度「越後流酒造技術選手権大会」表彰式の記念撮影。後列左から3番目が頚城酒造の吉崎さん
越後杜氏の流れを汲む関東や中部地方などの酒蔵も参加予定だ。1場(蔵)2点ずつ、約130点の出品が見込まれている。審査は4月2日と3日で、4月25日に柏崎市で表彰式が開催される。今年のナンバー1は果たして――。
だいぶ前になるが、何度かこの品評会の表彰式を取材させていただいた。
前身の「自醸清酒品評会」2009年の表彰式。1位から10位までにカップが授与される
その頃は、表彰式では杜氏の奥さまがともに登壇していたのが印象深かった。出稼ぎの期間に家を支えてくれた労いを込めた配慮が続いていたのだろう。現在は蔵元(経営者)と杜氏の2名が登壇する。
酒蔵のスタイルが多様化し、蔵人の社員化により昔ながらの杜氏制度は消えつつある。とはいえ、現在の新潟清酒の味を築いてきた越後杜氏の技能と酒造りへの思い、誰よりもいい酒を造りたい!という心意気は、これからも生き続けていくだろう。進化を続ける越後杜氏たちがこれから醸していく酒に、期待がふくらむ。
写真協力 坂本秀樹、金鵄盃酒造、河忠酒造、宝山酒造
ニール
高橋真理子