地元長岡農業高校の生徒がつくる酒米を使用し、生徒と共に行う酒づくりを始めました。できた酒粕は高校生たちの田んぼの肥料としての研究に使われ、藁はラベル用和紙の原料になるなど、循環型農業を行っています。
蔵人が持ってきた二つの利き猪口。社長の長谷川葉子さんは、色を見て、香りを確認し、味を利き、 「これは、このくらいでよかったね。もう1本の方は、少し抑えてもいいね。また記録しておいてください」と、濾過の前後の具合を確認し、指示を出す。
「お酒は生き物なので、その都度、その時の状態に応じて対応をしなければいけない。そして、記録に残す。自分にとっての安心のためでもあるんです」
長岡市にある摂田屋と呼ばれる地区は、酒、味噌、醤油など、醸造産業の盛んなところ。
この地で1842年に創業した酒蔵の経営を、長谷川社長が担ってから20年以上になる。 近年、よく聞くようになった雪中貯蔵・雪室貯蔵を、専務になって間もない頃に始めた。
雪深い小千谷の里で、室温0℃、湿度90%。静かに出荷の時を待つ酒は、定番の人気商品となっている。 また、蔵の裏側に並ぶ冷蔵庫のコンテナ。
フレッシュ感を保つため氷点下の設定だ。
30年ほど前、銀行員の経験もある長谷川さんは、「事務を少し手伝う程度なら」と気軽に蔵の仕事に加わった。ところが、夫・道郎さんが参院選に出馬したため状況は急転。
参院議員となった夫に代わって専務となった身に、蔵の経営全てがのしかかる。義父・長谷川信氏も法務大臣を務めた家ではあるけれど、酒蔵の運営をするなど考えもしなかった。やるしかない状況だったという。
社員と共に無我夢中で働き、少しは安定してきた矢先の2004年10月24日、新潟県中越地震が起こる。あまりの惨状に廃業も口にした夫。
しかし、そんな状況の中、頑張っている周りの人たちを見て、「今はやめるわけにはいかない」と続けることを伝えた。
全壊した2棟の蔵。しかし、
「仕込蔵は被害をまぬがれました。やれってことなんでしょう。酒造りを続けなさい、と」酒蔵を回りながら、懐かしそうに愛おしそうに話す。
「このタンク、行政の補助金に応募し、採用され購入できました。厳しい審査を受けての決定は本当に嬉しかった。2年連続で採用して頂き、格段により良い酒造りに向かっていくことが出来ております」
子供は娘3人。その誰にも継げとは言わず、それぞれの道を歩き始めた娘たちを見送った。
「海外で酒蔵というものの魅力に気づいた三女の幸子が、会社に入ると告げてきました。厳しいこの業界に入っていく妹を見て妹を助けたいと長女、次女も帰って来てくれました」
ところが、三女の幸子さんが29歳という若さで急逝する。
「今、2人の娘はさらに三女の分もと頑張ってくれています」と語る。
「小さな蔵」と言いつつも長谷川酒造は、少しずつ輸出展開もしている。
幸子さんは日本酒を世界に広げたいという夢を持ち蔵に帰ってきた。そして今その夢を祐子さんが受け継いでいる。
祐子さんは、長岡の地を前面に出した酒など、意欲的に動き始めている。
「新潟には、醸造試験場や清酒学校など、頼りになる先生がたくさんいます。清酒学校を首席で卒業した鈴木杜氏を中心に、意欲的に酒造りに取り組んでくれています。」
酒蔵を意識せずに育った、と思われた娘たち。しかしその実、しっかりと「常に全力で頑張る母の背中を見てきた」と次女の聡子さんは語った。
豊かで良質ではあるけれど、決して穏やかとは言えない生まれ育った土地にこそ、自らの道があると、戻ってきたのだ。
蔵元が自信を持って勧める日本酒を、いくつか紹介しよう。
地元長岡の契約農家による酒米、越淡麗のみを40%まで磨き、長岡の水で仕込んだ「丸ごと長岡」という酒。180年、同じ場所で、この地の先人たちから受け継いできた技から生まれる味わいを詰め込んだ1本だ。
銘柄の「初聲」は、生まれて初めての声、年の初めの鳥のさえずり、初めて発する声を表す。大正の年代に使用されていたものを復刻したものだ。清廉で爽やかな香りは新しいスタートにぴったり。
長谷川家では、信州から移ってきた数名の若衆がこの地を開墾したと伝えられている。そのため、屋号は「信州屋」。このルーツを今一度思い起こそうと、長野県産美山錦で仕込んだ純米大吟醸。
酒の雫を想わせる重なり合う花びらのラベルは、蔵を訪れたデザイナーが蔵のイメージからデザイン。
取材・文 / 伝農浩子