「蔵を作り、酒を造り、酒屋に戻る」  焼けた蔵を前に『加賀の井』蔵元が誓った挑戦
加賀の井酒造

加賀の井酒造KAGANOI shuzo

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PICK UP 2022

復興後の酒づくりも2022年秋から5シーズン目に入りました。改めて新蔵と向き合う事により見えてきた蔵の特性、これを活かすべく1つ1つの作業を見直し、この蔵の力を引き出す酒づくりが明確になりました。整った環境を活かした今後の加賀の井酒造の酒づくりに是非ご期待下さい。

加賀の井酒造株式会社・第18代蔵元・小林大祐さんと、製造を担う父の幹男さん

2016年12月22日昼前、年の瀬も押し迫った糸魚川の商店街で火の手が上がった。
すぐに鎮火と思われたが、消火の難しい密集地と折からの強風、さらに飛び火して瞬く間に広がる。消火まで30時間を費やし、住宅や店舗147棟が被災する大火となってしまった。
被災した中には、360年以上の歴史を紡いできた酒蔵、加賀の井酒造もあった。酒蔵は火災後も歩みを止めず、再開へと歩き出す。2018年春に新蔵が完成した。

被害総額は4億円以上

鎮火直後の酒蔵跡。「火にみんな持って行かれた……」と小林さん

酒好きならずとも気になる「加賀の井」の酒。加賀の井酒造蔵元・小林大祐さんは、「手元に1本も残っていないんですよ」と申し訳なさそうに言った。
「先日、とあるイベントに持ってきてくれた人がいて、久しぶりに見たのですが、タイミング悪く、私も飲めなかったんです」。さすがに残念そうだ。
『加賀の井』を飲んでみたい、飲んで応援したいという声は多方から聞こえてくる。駅から近い商店街で、コツコツと手造りを続けてきた同社の酒は、地元にも愛され、なかなか広く行き渡るものでもなかった。そして、火災に見舞われる。
町の中心部である本町通り商店街にあり、火元からは離れていた加賀の井酒造もその火に巻き込まれた。
「年末で、販売も、造りも忙しい時期でした。火が近くに来たと聞いて、逃げるしかなかった」。江戸時代から残る土蔵の蔵、一棟を残して消失。
被害総額4億円以上と言われる。焼け残った蔵にあった酒も熱でやられ、蔵にあった酒はほぼ全て失った。

『加賀の井』を届けることが酒屋の仕事

加賀の井酒造の数少なくなった痕跡が残る

被災後に富山県の銀盤酒造で場を借りて醸した酒は、当然のことながら、あっという間に手を離れた。
被災前の酒も含め、古くからのファン、そして、飲んで応援するファンたちののどを潤し、一部は大事に取り置かれ、いつか歓びの酒、励ましの酒として、人々の前に差し出される、その日を待っているのだろう。
「でも、いいんです。お酒は飲んでくれる人たちのためのもの。私たちがやらなければならないのは、新しい酒を造って届ける、そのことなんですから。
今回の火災では、うちだけではなくて亡くなった人がいなかったのがせめてもの救い。とにかく酒を造って酒屋に戻りたい。今は酒屋ですらありませんから」
小林さんは、淡々と話してくれた。その言葉は、「前しか見ていない」、そう語っているようにも、自分に言い聞かせているようにも響いた。

「ここにあるもの」を活かして

被災前の加賀の井酒造。正面が販売店舗、裏側に酒蔵が数棟建っていた

蔵元の小林さんで18代目を数える老舗、加賀の井酒造は、糸魚川のこの地で江戸初期の1650(慶安3)年に創業。新潟県内でも老舗であり、全国的にも歴史の長い酒蔵である。
参覲交代で糸魚川が宿場町として栄えていた江戸時代、前田利常公に献上した酒が気に入られて「加賀」を使うことを許され、「加賀の井」となったという。加賀藩藩主の滞在する本陣として場を提供していた。
そんな歴史を語るように、商店街の中でもひときわ風格を放つ建物だった。限られたスペースながら、場を移すことなく、蔵人、社員、力を合わせて酒造りを続けてきた。

県産米へのこだわり

市内の酒販店組合が主催して開く「五醸の会」も14回目を数える。5人一緒の写真を依頼すると、「樽の前に?後ろ?いっそ樽を持とうか」と小林さん。

海のすぐそばながら、地下には姫川水系の伏流水が流れ、仕込み水は敷地内にある井戸から得ることができていた。これがアメリカ硬度で130mg/L程度の中硬水。新潟の酒蔵の中では異質ともいえる高さのため、比較的ボディ感をしっかり感じさせるものとなる。加えて、新潟らしい綺麗さがある。
移動可能な米を主原料とする日本酒にとって、水は、動かしがたい唯一の土地との絆。その水をいかに使いこなしていくかに腐心することが、ここで酒造りをする意義だと考えている。
米は兵庫の「山田錦」をタンク1本の仕込みに使う以外は、県内産米を使用していた。他の酒に使う「山田錦」や「越淡麗」、「たかね錦」は県内産を使用。今後は100%県内産に切り替える予定だという。

新蔵に込めた思い

着々と工事は進む。「まだ先はありますが、様々な方の励ましやアドバイス、ご協力をいただき、ここまで来ました」。

火災の直後も、「『蔵を建てる』ということだけは決まっていた。だから、そのために何が必要なのかを知るためにすぐに動き出した」、という小林さん。
東日本大震災などで被災し、新蔵を建てた酒蔵をいくつか訪問して、その時の経緯や経験を聞いて、アドバイスをもらうこともできた。
「以前の蔵は、仕込み蔵、米蔵、窯場などが分かれて立っていたのですが、今回はそれを一つの建物に集約し部屋毎に異なる機能を持たせた設計になっています。動線も短くなります。一部2階建てで、一般民家の3階建てと同じくらいの高さになるでしょうか。
3階にすることもできたのですが、そうすると、建築の許可に時間が掛かる可能性があって、今季の造りに間に合わなくなってしまうので、ギリギリの高さということにしました。仕込み蔵も櫂棒が無理なく使える十分な高さが取れましたし、駐車場は裏側に持ってきて荷物の出し入れもスムーズになります」

蔵元からの一言

後方には唯一焼け残った土蔵が

小林さん:大火直後には、以前からの知り合いはもちろん、全く知らない方々など、たくさんの方たちから、励ましの言葉をかけていただき、とても勇気づけられました。
2018年春から稼働をし始めた新蔵は、大火前と比較し、原料米の状態をより見極める事が可能となりました。「つくる事は育むこと。基本に忠実な酒づくり」を胸に、自蔵の特徴である「中硬水」の仕込水との相性を考えながらより良い酒づくりを楽しみながら追求しています。

海沿いの町、糸魚川市は不思議な町だ。人口4.4万人弱の町に、決して大きくはないとはいえ5軒の酒蔵があり、酒販店、飲み屋さんの数も多い。
腕を交差させて乾杯する「クロス乾杯」でギネス記録を保持した過去も持つ。地元愛飲率も高いようで、タクシーに乗って「酒蔵へ」と告げると、嬉しそうにお酒の話をし始める。
日本酒への愛着がただごとではない町。その応援も得て、蘇る日はすぐそこに来ている。

取材・文 / 伝農浩子